「他人ばかり気にする相互監視社会に埋もれて、ぼくちょっと息くるしい。」
時代の変革と共に進化を遂げたスイスイ魔法のフォーンを手にした多感な子ども達の閉塞感を想像するには容易だ。
スマホの学校持ち込みが可能となり、加速するAIネイティブ時代の到来であるが、精神が未熟な子ども達にスマホを与えてしまう危険性を「スピリットが形成される前の、道具に使われてしまう不幸」という言葉(小学校本部打ち上げ席にて会長の)に、厚い雲がひらけた。
では、精神が成熟したとは、どんな人をいうのだろう。。?
逆説でいうと道具に使われない人となるが、そんな簡単な話では無い気がする。
我が身の振り返りと反省の謙虚さ、同じ過ちを繰り返さない為に自己分析力をもち寡黙に生きる姿に、私は人の成熟さを感じる。
子ども達においては、身近なオンラインゲームやSNSなどから派生する新しい時間価値が、子ども達の未来に健康的で可能性豊かなものであることを願うばかりで、私は未熟な上に無力だ。
相互監視内で力強く生き抜ける精神を養うには、例外なく、誰もが執着と投影を繰り返す人間の普遍的な問題と対峙する必要があるように思えてならない。
そして、活字の暴力などから自尊心を保ち続ける逞しさと創造力を失わないしなやかさは、「知性に属する孤独」の中にのみ存在していると思っている。
知性は孤独に属していなければならない。
私はこれを「進化するテクノロジー監視社会と共存の命題」としている。
普遍的問題について参考:三木清「人生論ノート」。
NHKテレビ100分で名著 日本を代表する哲学者、三木 清(1897- 1945)編。